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2011.03.28 (Mon)

夏目漱石 こころ

こころ (新潮文庫)こころ (新潮文庫)
(2004/03)
夏目 漱石

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親友を裏切って恋人を得たが、親友が自殺したために罪悪感に苦しみ、自らも死を選ぶ孤独な明治の知識人の内面を描いた作品。鎌倉の海岸で出会った“先生”という主人公の不思議な魅力にとりつかれた学生の眼から間接的に主人公が描かれる前半と、後半の主人公の告白体との対照が効果的で、“我執”の主題を抑制された透明な文体で展開した後期三部作の終局をなす秀作である。(BOOKデータベースより)

利己主義(りこしゅぎ):自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する考え方。エゴイズム。(wikiより)
分かってるよと言われそうですが、一応意味を示してみました。

夏目漱石の「こころ」は、小説を読んだことがなくても、あらすじだけは知っているという方が多いのではないでしょうか。私がハイスクールステューデントだった頃、国語の教科書に一部抜粋版が載っていたと記憶しています。
「こころ」に登場する「先生」は、信頼していた叔父に、両親の遺産を横取りされます。叔父の裏切りを受けたことで、先生は叔父だけでなく人間すべてに対し不信感を持つようになりました。そして、先生自身もまた、親友であったKを裏切ってしまいます。そこで先生は、「人間は罪深い利己主義に固められた生き物だ」と言う結論を動かしがたいものにします。
人生の中において、大きな失望や恐怖を人から与えられるとき、きまってその「人」というのは身近にいる人であることが多いと思います。身近にいる人とは、すなわち自分にとって重要な人間です。そういう重要な位置にいる人からは大きな「愛」を得られるのですが、同等の失望をも得られる可能性を秘めていると言えます。諸刃の剣になりうる存在なのです。

愛した人から裏切られたときのショックは想像に余りあるものがあります。
「こころ」に登場する先生とKは、どちらも繊細なガラスの心を持った青年でした。人一倍敏感なセンサーを体内に保有していた人間でした。ひとつ恋をしただけで、二人とも悩みもがき苦しむのです。
思うに、常に幸せを感じて生きていくためには、ある程度の「鈍感さ」も必要なのかもしれないです。そういえば渡辺淳一さんが「鈍感力」という本を書いていましたね。

どうして先生は、Kに「お嬢さんのことが自分も好きなんだ」と言えなかったのか。
Kが自殺した後、どうして先生は混沌とした気持ちのままでお嬢さんと結婚したのか。
結婚してからも、先生がお嬢さんにKとのことを打ち明けられなかったのはどうしてか。
俗な目線で読むと、まるで親戚のおばちゃんになったかのような気分で、もっとよい選択肢があったのに、どうして話し合うことをしなかったの、なんて思ったりします。
特に哀れなのはお嬢さん、のちに先生の奥さんとなる人です。結婚してからも真実を教えてもらえず、ただただ先生が変わってしまったことに戸惑い心を痛めています。先生はお嬢さんのことを愛していました。純白な存在だと思っていたし、妻の記憶に暗い話を残したくなかったからと言う理由で真実を明かさないまま死んでいったわけです。うーん、それだって結局は勝手なエゴイズムなんじゃないのか。。

「こころ」は、エゴイズムを論じた小説です。エゴイズムである以上、人間は他人に迷惑をかけながら生きていかざるを得ないのです。
エゴイズムは人間の根底に備わっているもので、目や鼻と一緒、人間を構成する一部なんだと思います。つまり、エゴイズムを克服することは、人間である以上不可能である…という結論に達するのです。先生は自殺することで人間であることを止め、エゴイズムからの脱却を図りました。

まあ、先生なりの結論は出たのでしょうが、お嬢さんの目線に立つと何ともいえない読後感です。

ちなみに、よく聞く話に「他人の嫌いだと思う部分は、自分自身の中にも持ち合わせているのです」なんてのがあります。利己主義の人間を、私はこれまで何度も見てきました。自分を何様だと思ってるんだ?という横柄な人間。私はそんな人間が大嫌いです。ということは、つまり自分もエゴイスト。
うーん… 本当は否定したいけど、否定しません。
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08:24  |  夏目漱石  |  コメント(0)

2011.03.18 (Fri)

夏目漱石 坊っちゃん

坊っちゃん (新潮文庫)坊っちゃん (新潮文庫)
(2003/04)
夏目 漱石

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江戸っ子で無鉄砲、正義派の坊っちゃんが、四国の中学に新任教師として赴任した。生徒の悪行の数々や教員同士の人間関係など、欺瞞に満ちた社会に坊っちゃんがもの申す! (内容紹介より)

坊っちゃん、子供の頃に読んだことあったかなーと思って読んでみたらものすごく面白くって、ああこんなに面白いストーリーだったら記憶力の弱い私でもさすがに覚えているやと思い、子供の頃には読んでないと言うことがわかった今日この頃。だーらだーらと長い文章ですみません。
対して、この「坊っちゃん」の文章のセンテンスは短く、無駄がありません。明快で読みやすい小説です。
聞くところによると、夏目漱石は「坊っちゃん」を二週間ほどで書き上げたそうです。それも、原稿の字はどんどん大きく、のびのびとしたものになっていったとか。書いていて楽しかったんでしょう。主人公・坊っちゃんの江戸っ子気性は、小説内のエピソード、そして文章のテンポに表れています。

宿直中に温泉に入ったり、同僚野だに生卵をぶつけたり、結構坊っちゃんは節操の無い一面もあります。これで教師がよく務まるなと思えるような子供っぽいところもあるのですが、ひたむきな真っ直ぐさに胸を打たれます。
小説の中では、主人公の坊っちゃんについて本名が語られません。でもそれがいいのかと思います。名前が出てしまうと、とたんに坊っちゃんは「いち世界に属するいち個人」となってしまいます。すると、坊っちゃんの一挙一動について、いち個人として共感するかしないかの判断になってしまう。名前が明らかにされないことで、抽象的な「正義のシンボル」と写るんじゃないかと思います。そうやって、坊っちゃんは読者の心にいつまでも残ります。

この小説の面白いところは「勧善懲悪」、悪い人間に制裁が下るところにあると思うんですが、個人的な解釈をさせていただくとテーマまでには成り得ていないのではないでしょうか。それがテーマだとすると書き方が中途半端なのです。悪い同僚・上司と対立した坊っちゃんは東京へ帰ることになります。けれど対立した相手たちのその後は分からずじまいです。きっと、改心などせず、相変わらずやってるんじゃないかと思います。
分かりやすいように小説を木に例えてしまえば、勧善懲悪も伝えたい「枝」ではあるけれど、もっと大きい「幹」となっている部分は、坊っちゃんの素直さ・ひた向きさにあるんじゃないかしらと思っています。分かりやすいほどに単純明快で、考えていることがすぐ分かる。そんな純粋な人間は、この世界で生きていくのは何かと大変かと思いますが、みな心の中では「坊っちゃんのように生きたい」と憧れている気持ちがあるのではないでしょうか。

また、新聞批判のくだりも面白い。昔では新聞だけれど、現代で言えばテレビ(マスコミ)となるでしょうか。
新聞に書かれるのとスッポンに食いつかれるとが似たり寄ったりだ、という表現に爆笑し共感。
夏目漱石の社会・人間批判精神がよく表れている部分です。

にしても、性格が「親譲りの」無鉄砲とある坊っちゃんなのに、その両親から「ろくなものにならない」とダメ出しばかりされているのは哀れでした。

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08:48  |  夏目漱石  |  コメント(2)

2011.03.08 (Tue)

夏目漱石 吾輩は猫である

吾輩は猫である (新潮文庫)吾輩は猫である (新潮文庫)
(2003/06)
夏目 漱石

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漱石の処女作であると共に、一躍その名を高からしめた代表作でもある。苦沙弥先生に飼われる一匹の猫にたくして展開される痛烈な社会批判は、今日なお読者の心に爽快な共感を呼ぶ。(山本健吉)(内容紹介より)

日本人であれば誰でも、タイトルと冒頭部分だけは知っている名作です。
わたくし、趣味は読書と豪語しているくせに、実は読んだことがありませんでした。
うん、すごい。すごいという形容詞では何がどうなってすごいのか伝わらないかと思うんですが、すごいんです。
この小説が漱石のデビュー作と知り、鳥肌が立ちました。夏目漱石は、まさに鋭才と呼ぶにふさわしい人物です。日本の宝です。ちなみに、これまで私は、日本の宝は水嶋ヒロだと思っていました。

あらすじだけだと、ひどく単純な小説です。細い骨といってもいいかもしれない。それが漱石の手にかかり、重厚なデコレーションが施された小説に仕上がっています。例えば、猫がカマキリやセミを獲ろうとするシーンが、何ページにもわたって書かれているのです。文章にしたら、五行ほどで終わってしまうべき部分だろうに。それも、ただ引き伸ばすだけじゃなく、一つの物語として楽しめてしまう内容に書き上げているところがアッパレです。
そういえば、ナントカという作家(ど忘れしました)が、「家から近所のタバコ屋に行くというストーリーだけで短編小説が書ける(セリフもうろ覚え)」と言ったと記憶しています。ものすごく短い間の出来事であっても、腕のいい作家の手にかかれば、描写を膨らませて面白い小説に仕上げることができるのです。もちろん、描写の能力が優れている作家でないと、途端につまらない小説になってしまいますけど。

苦沙弥先生と来客たちが繰り広げる会話にも、同じことが言えます。
話の内容はひどくクダラナイのに、彼らの会話には薀蓄がこれでもかという程に詰め込まれ、独特のリズムと雰囲気をかもし出しています。それがもう面白すぎて、読んでいるうちにくせになり、アリ地獄のようにハマってしまうのです。彼らは、バカではないけどアホです。
真面目に話し合いをしているのに、どうしてこんなに面白いのか。
前も書いたと思いますが、「ユーモア」を小説の中で追求するのは非常に難しいことだと思います。滑った瞬間にレベルの低い小説というレッテルを貼られてしまいますし、また、万人が理解できるユーモアでないと読者に疎外感を与えてしまいよろしくない。この「吾輩は~」については、もう言うまでもありません。誰が読んでも面白い。
薀蓄の引用が下手な小説だと、説明文を延々と読まされるようで興ざめしたりするものですが、「吾輩は~」の場合は、薀蓄が小説に不可欠な要素として違和感無く組み込まれています。
薀蓄および無駄話なくして吾猫なし。

ちょっと脇道にそれます。。私は、森見登美彦の小説によく出てくる「おもちろい」の表現が大好きだったのですが、これも元ネタは夏目漱石だったんですね。どうでもいいけど、森見さんの文体は夏目漱石に似ています。影響を受けた作家というのもうなずけます。にしても、森見さんのすごいところは漱石風のユーモラスな文章を自分の文体として書けてしまうところだと思います。誰にでも模倣できるものではありませんよ。

「吾輩は~」の面白いところは、そのユーモアな会話自体にあるのではなく、その会話に紛らせた「社会・人間への風刺・批判」にあります。公衆浴場のシーンで、主人公の猫は人間のことを「化物」と揶揄してます。もともと裸で生まれてきたのに、なぜ人間は服を着るのか。なぜお風呂に入るときに人間は服を脱ぐのか。猫にしてみれば確かに疑問です(最近は猫もかわいい服を着てたりしますけど)。服を着た人間は、裸を「獣」と看做します。もう、裸で外を歩けない。人間は平等という状態を嫌うために服を着るのです。いやあ、いいですね。おもちろいです。

確かに純文学チックで解釈しづらい部分もあるのですが、それを補って余りあるユーモアの嵐。深いところまで読めればもちろん収穫アリですし、もし難しくて内容が分からなかったという場合でも、ユーモアを体感して「おもしろかった」という感想が持てたとしたら、それはそれでいいんじゃないかなーなんて思います。

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09:00  |  夏目漱石  |  コメント(4)
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